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HY戦争が起こった背景

スクーター

HY戦争とは1979年から1983年にかけてホンダとヤマハがバイク市場において起こった過激なシェア争いを指します。

HY戦争が起こった背景

1970年代前半、バイクの販売台数が伸び悩み飽和状態となっていました。
ホンダはこの現状を打破しようと1976年に新しいコンセプトの50ccバイク「ロードパル」を発売。
これは女性をターゲットにしたバイクで、ソフィア・ローレンを起用したテレビCMも相まって大ヒットしました。
1977年にはヤマハがロードパルの対抗馬としてパッソルを投入。いわゆるスクーターのように「ステップが平らである」ことを強く打ち出し手軽さをアピールしました。
危険なイメージだったバイクを、オシャレに乗りこなす女性の姿がイメージアップにつながり販売台数も右肩上がりにアップします。

1979年にヤマハが宣戦布告

1979年1月単月のみでしたが生産台数でホンダを追い抜きます。当時、ヤマハは女性向けの免許教室を開催し、新規需要を募っていました。
そこでヤマハの二代目社長・小池久雄は社内外にバイク業界の盟主になると宣言。
当時、ホンダはアメリカやヨーロッパで見た目がよくないとクレームを受けていました。そこをヤマハが突いてきた形です。
さらにホンダの販売店からも何とかしろとクレームを受ける始末。

好調なヤマハ

1980年ヤマハは年間販売台数95万台という計画を提示しました。また、丁度そのころ、ヤマハ本体のヤマハ楽器は河島博社長を退任させ、川上源一会長が社長に復帰します。
河島博はホンダの河島社長の弟ということもあり、様々な憶測が飛びますが、ホンダには全力で対抗するという意思表示に取られました。
結果的に1980年の販売台数は83万台と、ホンダの101万台との差を20万台に縮めます。
もともとホンダとヤマハはライバルではありましたが、険悪な関係ではありませんでした。しかし、ホンダはヤマハの一連の宣戦布告を受け徹底抗戦に打って出ることになったのです。