徹底抗戦を選んだホンダ
ホンダは当時、自動車でCVCCエンジン(※1)を開発し世界にも名をとどろかせていました。
※1 1970年代当時もっとも厳しく達成不可能といわれた米国マスキー法排ガス規制をクリアしたエンジン
ホンダでは自動車がバイクの売上を凌いでいましたが、自動車を優先しバイク業界1位を譲るか、再びバイクに注力するか迫れられます。
そこで、当時の社長だった河島喜好がバイク業界1位を守ることを選択したのです。
ホンダはバイクだけではなく、ヤマハのバイク販売について調査しました。
複数のブランドを扱う併売店や1社のみを扱う専売店を調査し、ヤマハがどのような条件でバイクを販売していたのか調べたのです。
結果、すでに実勢価格は定価の半分以下になっており、勝つためには原価を無視してまで販売していました。
毎週のように新製品が発表されような状態で、多くのバイクが販売されます。
当時は人気がなく、販売終了後人気の出たモトコンボのようなバイクは高値で取引されています。
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併売店ではホンダの社員が朝イチでお店に行って、店頭の一番いい場所にホンダのバイクを展示し、ヤマハのバイクは倉庫にしまうということをやっていて、その逆もありました。
店先ではホンダとヤマハの営業マンが罵りあっていた風景も見られるほどに。
肝心のシェアはホンダがトップを死守しますが、現場は疲弊していました。
そのような状況に危機感を持ったのがスズキです。争いの沈静化を申し入れるもどちらも耳を貸してくれない状況でした。
ヤマハの敗北宣言
しかし、無謀な拡大路線が続くはずもなく両社は景気低迷によって大量の在庫を抱えることになります。
ヤマハの被害は深刻で200億円ともいわれる大赤字を出し会社が傾きました。
1982年にヤマハは「ホンダさんの商品開発、販売力にはかなわない」と敗北宣言をだします。
2月10日にホンダとヤマハの会談が設けられ、和解しました。
この時点でヤマハは国内在庫が50万台、海外も含めた総在庫は100万台。売り上げも前期に比べ1,000億円も落ち込みます。
経常利益は過去最高だった146億円から2億円、設備投資の負担増、在庫、運転資金など借入金は2,500億円超にも及びました。
ヤマハの経営陣は小池社長を含め9人が退任、降格となりヤマハの立て直しを急ぎます。
一方、ホンダは売上1兆7,500億円、経常利益は過去最高の506億円となり圧勝にも見えますが、販売店のリベートが200億円、設備投資に500億円以上と痛手を負っています。